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蛍光分光の基礎

図 4: Jablonskiのダイアグラム
\includegraphics[width=10cm,clip]{Jablonski.eps}

蛍光(fluorescence)とは、電子励起状態(S1)から自然放出(spontaneous emission)によって電子基底状態に戻る発光過程をいう。この過程は、 Jablonskiダイアグラム(図4)によって説明される。まず、分 子は通常、室温では、電子基底状態の振動サブレベルの基底状態にほとんど存在 する。これに電子状態間のエネルギーに共鳴する光を照射することで、電子励起 状態へ遷移させる。これは、通常の吸収スペクトルの測定に他ならない。この遷 移は、10$ ^{-15}$ 秒(フェムト秒)程度の時間スケールで起こり、この間、振 動などによる原子核の位置の変化は無視できる(Frank-Condonの原理)。また、 一般に電子励起状態の平衡核間距離は、電子基底状態のそれよりも長い。このた め、遷移の結果、電子基底状態の振動基底状態と重なりの大きい電子励起状態の 振動励起状態に到達する確率が高い。電子励起状態の振動励起状態や電子状態の 第2励起状態に到達した分子は、分子内緩和や無輻射遷移などの多くの緩和過程 によって、10$ ^{-12}$秒(ピコ秒)の時間スケールで、第1電子励起状態の振動 基底状態に戻る。この第1電子励起状態の振動基底状態からの自然放出による発 光が蛍光スペクトルである。この発光確率は、アインシュタインのA係数で記述 され、個々の分子種によって異なるが、通常、10$ ^{-8}$秒の時間スケールでお こる。Jablonskiダイアグラムを見ればわかるように、発光のエネルギーは吸収 のエネルギーより低エネルギーになっている。これは、吸収された光よりも蛍光 によって発光された光の方が長波長になることと同義で、この波長のシフトを ストークスシフト(stokes' shift)と呼ぶ。また、第1電子励起状態(1重項)か ら励起3重項状態へ移行(項間交差)し、その後基底状態に戻る発光を燐光 (phosphorescence)と呼ぶが、ここでは詳説しない。

さて、蛍光寿命は一般に10$ ^{-8}$秒程度であると述べたが、この時間スケール でおこる励起分子の運動や周囲との相互作用によって、蛍光スペクトルは影響を 受ける。このことが、種々の分光法の中で、蛍光分光をユニークな手法にしてい る。蛍光分光法で測定する物理量や得られる情報について、以下、簡単にまとめ る。この実験テーマに特に関係の深いことがらについては、後で詳しく述べる。 それ以外については、参考文献 [3] [6]を参照するこ と。

発光スペクトル

励起光の波長を固定して、発光した光のスペクトルである(スペクトルとは光 の強度の波長依存性をいう)。単に蛍光スペクトルという場合には、この発光 スペクトルを指す。上で述べたように、発光スペクトルは励起波長よりも長波 長側に現れる。溶媒の影響を受け、スペクトルが顕著に変化する場合がある (溶媒緩和の項参照)。

励起スペクトル

測定する発光の波長を固定して励起光の波長を変えていった時の、発光強度の 励起波長依存性をいう。実験上の歪みを補正した真の励起スペクトルは、試料 の吸収スペクトルに一致する。蛍光を発する分子と光との相互作用のみを理論 的に扱えば、励起スペクトルと発光スペクトルは鏡像関係をもつが、溶液中の 実際の測定では、溶媒との相互作用のために、鏡像関係からくずれていること が多い。

量子収率

吸収(励起)によって蛍光分子に吸収された光子数と、蛍光によって放出された 光子数の比。励起された分子のすべてが蛍光によって基底状態に戻れば 1 とな るが、実際には、無輻射遷移によって 1 とはならない。無輻射遷移とは、蛍光 を発しないで基底状態に戻る遷移で、上記の項間交差による3重項状態への緩和 の他、電子状態のエネルギーが振動エネルギーなどに転化して最終的に熱エネル ギーになる内部転換や、他の分子にエネルギーを移すエネルギー移動などがある。 第1励起状態にある分子の蛍光遷移と無輻射遷移の速度定数(単位時間当たりに 遷移を起こす確率)をそれぞれ、$ k_f$$ k_{nr}$とおくと4、量子収率$ \Phi$

$\displaystyle \Phi = k_f / (k_{f} + k_{nr})$ (1)

と定義される。

蛍光寿命

上記の定義にしたがえば、蛍光寿命τは、

$\displaystyle \tau = (k_f + k_{nr})^{-1}$ (2)

と定義され、蛍光分子が励起状態にとどまる平均時間である。温度や溶媒に依 存して変化する。パルス光で励起し時間に依存した蛍光スペクトルを測定する ことで直接測定することが可能であるが、本実験の定常光を用いた分光法 5では直接測定できない。但し、式1と2からわかるように、

$\displaystyle \tau = \Phi / k_f$ (3)

であるので、あるパラメーター(例えば温度)によって、自然発光確率 ($ k_f$)が変化しないとすれば、蛍光寿命は量子収率に比例する。さらに、励 起光による吸収確率もそのパラメーターに依存しないとすれば、量子収率は蛍 光強度に比例するので、蛍光強度の相対的な変化からそのパラメーターに依存 する蛍光寿命の相対的な変化の度合いを見積もることが可能である(式 42参照)。

蛍光異方性

励起状態にいる間に、分子は回転する。それによって、光を吸収して遷移した 双極子モーメント(遷移双極子モーメント)の方向とは異なった方向の偏光の 蛍光スペクトルを示す。したがって、直線偏光した励起光で励起し、蛍光の偏 光状態(偏光解消)を調べることで、励起状態の間に蛍光分子がどの程度回転 したのかの情報を得ることが出来る。詳しくは後述する。

溶媒緩和

一般に、電子励起状態にある分子は、電子基底状態とは異なる電気的双極子モー メントをもつので、極性溶媒中では、励起状態にいる間に、励起分子の双極子 モーメントを安定化させるように、溶媒分子の再配向が起こり得る。その結果、 励起状態は相対的に安定化し、蛍光スペクトルの長波長へのシフト、蛍光寿命 が長くなることなどが観測される。このことを利用して、巨大蛋白分子や膜に 結合した蛋白質の蛍光を発する部位が、溶媒(水)にさらされているか、ある いは折り畳まれて内部に存在するかというような情報を得ることが可能となる。

蛍光の消光

励起状態にある蛍光分子は、エネルギー的に不安定な状態にあるため、他の分 子との相互作用が強くなる。励起状態の蛍光分子と複合体を形成し、蛍光分子 を脱励起させる分子を一般に消光分子(quencher)という。消光分子を利用し て、たとえば、細胞の内部に蛍光分子を、外部に消光分子をおいて、蛍光スペ クトル強度の時間による減衰を測定することで、蛍光分子や消光分子の細胞膜 の透過性の情報を得るなど、多様な応用が行われている。

蛍光の共鳴エネルギー移動

励起状態にある分子の近傍に、その分子の発光エネルギーと同じ吸収遷移をも つ他の分子が存在すると、励起分子のエネルギーが近傍の分子に移動し、近傍 の分子が励起される現象がおこる。これを共鳴エネルギー移動という。このと き、エネルギーを放出して基底状態に戻る分子をドナー、エネルギーを受け取っ て励起される分子をアクセプターと呼ぶ。共鳴エネルギー移動の起こる確率は、 ドナーとアクセプターの相対的な配向に依存し、両者の距離の6乗に反比例す る。したがって、実際上、ドナーの近傍の10nm以下の距離にあるアクセプター のみが寄与する。共鳴エネルギー移動は、光子(photon)を介した発光と再吸 収の過程ではない。発光と再吸収は試料セル内のすべてのアクセプターについ て基本的には距離に依存しない確率で起こる。共鳴エネルギー移動が起こると、 ドナーの発光スペクトルは小さくなり、逆にアクセプターの発光スペクトルが 現れて成長する。

波長とエネルギーとの関係

蛍光分光のスペクトルは、慣例的に、横軸を(真空中での)光の波長(nm)で表記す る場合が多い。物理分野でスペクトルを表記する場合は、横軸をエネルギーで表 記する方が一般的である。光をエネルギーに変換する際の最も基本的な式は、$ E=h\nu $ で、hはプランク定数、$ \nu$ は光の振動数である。エネルギーの単位 としては、J や eV、cm$ ^{-1}$ などが用いられる。このうち、 cm$ ^{-1}$ は波数 (wavenumber)で、分光学の分野で慣例的に良く用いられるエネルギー の単位であり、カイザーと呼ばれることもある。波数は、真空中の単位長さあたりに 入る波の数であり、光の波長を波数に変換するためには、波長をその長さに変換 してから、逆数を取れば良い。横軸を波長で表したスペクトルでは、波長が長く なる程、エネルギーは低く(小さく)なること、また、波長はエネルギーの逆数に 比例しているので、ふたつの波長の差をとってもそれはエネルギーに変換できな いことに注意する必要がある。






...とおくと4
前者は、 励起状態にある分子が自然放出で基底状態に戻る確率で、アインシュタインのA 係数とも呼ばれる。
... ことで直接測定することが可能であるが、本実験の定常光を用いた分光法5
励起光を連続的に照射して、発光を常に観測して平均化する測定法

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