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蛍光異方性のミクロ粘性との関係

Maxwellの方程式で記述されるように、光は交流電磁波であり、進行方向に対 して垂直な方向に電場を持つ。通常の太陽光やランプからの光は、あらゆる方 向の電場の重ね合わせであり無偏光であるが、偏光子などを通すことにより、 特定の電場の方向の光のみを選択的に取り出すことができる。電場が1方向に 完全にそろった光の状態を直線偏光(linear polarization)と呼ぶ。蛍光異方 性の測定では、励起側と発光側のそれぞれに偏光子を入れ、直線偏光の励起の 後に、どのような偏光の状態で発光が起こるのかを測定する。これによって、 励起された蛍光色素が、その蛍光寿命の時間内に、どのような過程を経て発光 に至ったのかを知ることができる。光と相互作用するのは、遷移双極子モーメ ントと呼ばれる分子内のベクトルである。このベクトルは、遷移の種類によっ て分子内である固有の方向を持っている。このベクトルと光の偏光の方向が一 致したときに、その分子は最大の確率で遷移し、光の吸収または発光を起こす。 蛍光異方性の測定とは、吸収の遷移双極子モーメントと発光の遷移双極子モー メントの空間内での分布を測定していることに他ならない。本項では、まず、 蛍光異方性の定義を述べ、回転拡散モデルとStokesの式によって、蛍光異方性 の値を蛍光色素周囲の微視的な粘性と結び付ける式を得る。これらは単純なモ デルであるが、水溶性たんぱく質の蛍光異方性の挙動などは正しく説明できる ことが知られている。次に、遷移と発光の遷移双極子モーメントの分布と蛍光 異方性の値との関係を詳しく解説する。

\includegraphics[width=10cm,clip]{theory1.eps}

図のように直線偏光したパルスの入射光で励起した場合を考える。入射光の偏 光方向に平行と垂直な蛍光の偏光成分を、それぞれ、$ I_V(t)$$ I_H(t)$と表 す。時間に依存した全蛍光強度$ I_T(t)$および蛍光異方性$ r(t)$は、

$\displaystyle I_T(t) = I_V(t) + 2 I_H(t)$ (4)
$\displaystyle r(t) = \frac{I_V(t) - I_H(t)}{I_T(t)}$ (5)

と定義される6。ここで、$ I_T(t)$$ r(t)$がどちらも単純な指数型減衰を示すと仮定 し7

$\displaystyle I_T(t) = I_0 \exp(-t/\tau)$ (6)
$\displaystyle r(t) = r_0 \exp(-t/\phi)$ (7)

と表す。ここで $ r_0$は、蛍光分子の吸収と発光の遷移双極子モーメントのな す角によって決まる定数で、それらが完全に一致していれば、0.4になる。 $ \tau$は蛍光寿命、$ \phi$は蛍光の回転相関時間と呼ばれる。時間分解の蛍光 異方性の測定8を行えば、$ \tau$$ \phi$を独立に決定す ることが可能であるが、定常光での蛍光異方性rは、

$\displaystyle r=\frac{\int_0^{\infty}I_T(t)r(t)dt}{\int_0^{\infty}I_T(t)dt} \\ $ (8)

を測定していることになり、上式を代入すると、

$\displaystyle r=\frac{r_0}{1+(\tau /\phi )}$ (9)

となる。これから、蛍光寿命に対して回転相関時間が長い(蛍光寿命の時間内 に分子が回転しない)場合には$ r \to r_0$、逆に回転相関時間が非常に短い場 合には$ r \to 0$ となることがわかる。体積$ V$の球形分子を、粘性$ \eta$で 表わされる溶媒に置いた場合の回転拡散方程式9から、回転拡散定数$ D$は、

$\displaystyle D=k_B T/(6V\eta)$ (10)

と表される。ここで$ k_B$はBoltzman定数である。また、$ \phi=1/6D$であるから、 これらを代入し整理すると、

$\displaystyle \frac{r_0}{r}=1+k_B\frac{T\tau}{V\eta}$ (11)

となり、$ \tau$が不変であれば、$ 1/r$$ T/\eta$に対してプロットすると直 線にのるはずである。これをペラン・ウェーバーのプロットという。切片から $ r_0$を、傾きから$ \tau /V$を見積もることが出来る。また、$ \tau$が既知で あれば、蛍光分子の回転体積$ V$を決められる。また、$ \tau$が変化する場合 は、$ 1/r$ $ T\tau /\eta$に対してプロットする。これを変形ペラン・ウェー バーのプロットという。ペラン・ウェーバーの式は、回転拡散方程式の条件が 近似的に成り立つ場合、すなわち、溶媒分子に比較して蛍光分子が十分に大き く形も球形に近い場合には、良く成り立つことが知られている。逆に、回転拡 散方程式では表わせない様な場合にペラン・ウェーバーの式で解析すると、回 転体積が実際の分子体積と矛盾した結果となる。例えば、回転拡散方程式で表 わされるよりも分子の回転拡散が速い場合には、回転体積は分子体積よりも小 さくなる。

さて、次に、分子の遷移双極子モーメントと蛍光異方性rとの関係を詳しく見てみよう。

分子の永久双極子モーメントとは、分子の正電荷(原子核)の重心と負電荷 (電子雲)の重心を結んでできるベクトルであり、例えば、水分子は1.85デバ イという永久双極子モーメントをもっている。一般に、永久双極子モーメント という場合は、その分子の電子基底状態での双極子モーメントの値を指し、電 子励起状態では平衡核間距離も電子雲の拡がりも基底状態とは異なるので、異 なった値をとる。遷移双極子モーメントとは、その遷移に関係するふたつの状 態間の双極子モーメントベクトルの差である。したがって、その方向は遷移の 種類によって異なる。蛍光分光では、吸収の遷移と発光の遷移は同じ状態間の 遷移とは限らないので、一般には、それらのベクトルを独立に扱う必要がある。 吸収または発光に関与する光の偏光方向が遷移双極子モーメントの向きと一致 するとき、遷移確率は最大になり、それらが直交するとき、遷移確率はゼロに なる。

吸収と発光の遷移双極子モーメントが一致する場合( $ F_{ex}=F_{em}$)

\includegraphics[height=5cm,clip]{theory2.eps}

まず、簡単のために、励起と発光の遷移双極子モーメント(それぞれ、$ F_{ex}$$ F_{em}$)が一致し、分子の回転拡散もない場合を考える。図に示すように、x軸方 向から、z方向に偏光した入射光で励起し、y軸方向から発光のふたつの偏光 成分を観測する。このような座標系において、励起および発光の確率は、

励起の確率
$ cos^2 \theta$ に比例
z軸方向の偏光発光の確率
$ cos^2 \theta$ に比例
x軸方向の偏光発光の確率
$ sin^2 \theta \cos^2 \psi$ に比例
と与えられる。ここで、 $ 0 \leq \theta \leq \pi$ $ 0 \leq \psi \leq 2\pi$ である。 蛍光分子が空間的に$ \theta$$ \psi$の配向をとる確率分布関数を $ D(\theta,\psi)d\theta d\psi$とおくと、入射光に平行と垂直な偏光発光強度は、それぞれ、

$\displaystyle I_V(t) = k \int \int \cos^4\theta D(\theta,\psi)d\theta d\psi$ (12)
$\displaystyle I_H(t) = k \int \int \cos^2\theta \sin^2 \theta \cos^2 \psi D(\theta,\psi)d\theta d\psi$ (13)

と書くことが出来る($ k$は比例定数)。溶液やガラス状態のように、蛍光分子 が空間的に全くランダムな方向を向いている場合(等方的な試料)、

$\displaystyle D(\theta,\psi)d\theta d\psi = \frac{1}{4\pi}\sin\theta d\theta d\psi$ (14)

であるから($ 4\pi$は規格化因子)、12,13式の積分は、

$\displaystyle I_V(t) = \frac{k}{4\pi} \int \cos^4\theta \sin\theta d\theta \int d\psi = \frac{k}{5}$ (15)
$\displaystyle I_H(t) = \frac{k}{4\pi} \int \cos^2\theta \sin^3 \theta d\theta \int \cos^2 \psi d\psi = \frac{k}{15}$ (16)

と計算でき、これらを蛍光異方性の定義に代入して、

$\displaystyle r = \frac{I_V - I_H}{I_V + 2 I_H} = \frac{2}{5} = 0.4$ (17)

が得られる。これは、励起と発光の遷移双極子モーメントが一致し、かつ、そ れらが空間的にランダムに分布している場合の蛍光異方性の値であり、均一な 溶液中で取り得る蛍光異方性の最大値である。

吸収と発光の遷移双極子モーメントが一致しない場合( $ F_{ex} \neq F_{em}$)

\includegraphics[height=5cm,clip]{theory3.eps}

図のように、励起と発光の遷移双極子モーメントが一致しない場合を考える。 一致しない原因としては、分子内で遷移に関わる電子状態が励起と発光で異なっ ている場合と、励起から発光に至る蛍光寿命の間に分子が回転する効果のどち らか、または、両方がある。右の図において、$ \alpha$$ F_{ex}$$ F_{em}$ のなす角、$ \beta$$ F_{ex}$の周りの$ F_{em}$の回転角である( $ 0\leq
\alpha \leq \pi$, $ 0\leq \beta \leq 2\pi$)。このようにとった座標系にお いては、球面三角法の定理を用いて、

$\displaystyle \cos\phi = \cos\alpha\cos\theta + \sin\alpha\sin\theta\cos\beta$ (18)

の関係が成り立つ。 つまり、図に示されている5つの角度パラメーターのうち、独立なものは4つである。 前節の場合と同様に、励起および発光の確率は、
励起の確率
$ cos^2 \theta$ に比例
z軸方向の偏光発光の確率
$ cos^2 \phi$ に比例
x軸方向の偏光発光の確率
$ sin^2 \phi \cos^2 \psi$ に比例
で与えられる。 ここで、 $ 0 \leq \theta \leq \pi$ $ 0 \leq \phi \leq \pi$ $ 0 \leq \psi \leq 2\pi$ である。$ \theta$$ \psi$に関する分布関数を $ D(\theta,\psi)d\theta d\psi$$ \alpha$$ \beta$に関する分布関数を $ f(\alpha,\beta)d\alpha d\beta$とおくと、ふたつの偏光発光強度は、

$\displaystyle I_V(t) = k \int \int \int \int \cos^2\theta \cos^2\phi D(\theta,\psi) f(\alpha,\beta) d\theta d\psi d\alpha d\beta$ (19)
$\displaystyle I_H(t) = k \int \int \int \int \cos^2\theta \sin^2\phi \cos^2\psi D(\theta,\psi) f(\alpha,\beta) d\theta d\psi d\alpha d\beta$ (20)

となる。前節の場合と同様に、等方的な試料においては、

$\displaystyle D(\theta,\psi)d\theta d\psi = \frac{1}{4\pi}\sin\theta d\theta d\psi$ (21)

と置くことができ($ 4\pi$は規格化因子)、また、$ \beta$ $ 0\leq \beta \leq 2\pi$ の範囲でランダムであると考えて良い。

$\displaystyle f(\alpha,\beta)d\alpha d\beta = \frac{1}{2\pi} f(\alpha) d\alpha d\beta$ (22)

18,21,22式を、19,20式に代入して計算すると、

$\displaystyle I_V(t) = k(\frac{1}{5}\overline{\cos^2\alpha} + \frac{1}{15}\overline{\sin^2\alpha})$ (23)
$\displaystyle I_H(t) = k(\frac{1}{6} - \frac{1}{10}\overline{\cos^2\alpha} - \frac{1}{30}\overline{\sin^2\alpha})$ (24)

が得られる。ここで、

$\displaystyle \overline{\cos^2\alpha} = \int_0^{\pi}\cos^2\alpha f(\alpha) d\alpha,\qquad \overline{\sin^2\alpha} = \int_0^{\pi}\sin^2\alpha f(\alpha) d\alpha$ (25)

は、試料内の蛍光分子についての集団平均である。23,24式を蛍光異方性の定義式に代入し、

$\displaystyle r = \frac{I_V - I_H}{I_V + 2 I_H} = \frac{2}{5}(\frac{3\overline{\cos^2\alpha}-1}{2})$ (26)

を得る。26式は、等方的な系において、蛍光異方性$ r$を、 吸収及び発光の遷移双極子モーメントの成す角($ \alpha$)の分布に結び付ける一般的 な式である26式をいくつかの場合について考えてみる。

励起と発光の遷移双極子モーメントが一致する場合
前節のように、励起と発光の遷移双極子モーメン トが一致する場合($ \alpha=0$)には、 $ \overline{\cos^2\alpha}=1$となって、17 式に帰着する。



分子の回転拡散が全くない場合
ガラス状態のように、分子の回転拡散が全くない場合、分子は空間的に固定されているので、$ \alpha$の値は、分子 内の励起と発光の遷移双極子モーメントの相対的な角度のみによって定まる。 $ 0 \leq \overline{\cos^2\alpha} \leq 1$であるから、蛍光異方性$ r$は、

$\displaystyle -0.2 \leq r \leq 0.4$ (27)

の範囲の値を取り得て、この時の$ r$7式で$ r_0$と表記されている。 励起と発光に関与するふたつの電子状態が同じ場合(第1電子励起状態に励起し、 そこから元の基底状態に戻る場合)には、一般に$ \alpha$がゼロから大きくはずれる ことはなく、$ r_0$は0.4の近傍の値をとる。励起(吸収)が高次の電子状態に起こり、 発光が第1励起状態からの場合には、ふたつの遷移双極子モーメントは独立であるので、 $ \alpha$は任意の角度を取り得る。例えば、 $ \alpha =54.7^{\circ}$では、$ r_0=0$で、 分子の回転拡散の有無に関わらず蛍光異方性はゼロになる。この角度は、 magic angle と 呼ばれる。$ \alpha$がこの角度より大きい時には、$ r_0$はマイナスとなる。

観測する発光波長は固定し、励起波長を変えて蛍光異方性を測定すると、励起波長に依存して励起される電子状態が変わるので、励起の遷移双極子モーメントのみが変わり、蛍光異方性に励起波長依存性があらわれる(実験2)。



回転拡散が存在する場合
回転拡散が存在する場合には、蛍光寿命と回転拡散の速さ(回転相関時間) との兼ね合いで、9式のように、蛍光異方性の値は変わる。 回転拡散が非常に速く、$ \alpha$が完全に空間的にラ ンダムに分布する場合10は、

$\displaystyle f(\alpha)d\alpha = \frac{1}{2}\sin\alpha d\alpha,\qquad \overline...
...\alpha} = \frac{1}{2} \int_0^{\pi}\cos^2\alpha \sin\alpha d\alpha = \frac{1}{3}$ (28)

であるから、$ r \to 0$となる。つまり、粘性の低い液体中など、蛍光寿命に 比較して回転拡散が速い場合には、蛍光異方性の値はゼロになる。 一般に、蛍光寿命の間に有限の 回転拡散が起こる場合には、その度合いに応じて、蛍光異方性は、

$\displaystyle 0 \leq r \leq r_0 \quad(r_0 > 0の場合), \qquad 0 \geq r \geq r_0 \quad (r_0 < 0の場合)$ (29)

の範囲の値をとることになる。

... と定義される6
散乱の影響や分光器の特性に関する実験的な諸問題については、 別に考察する
... し7
この仮定はかなり限定された条件でないと成立しないが
... 異方性の測定8
偏光したパルス光源で励起して、時間に依存した蛍光 発光の偏光依存性を測定する実験
... 表わされる溶媒に置いた場合の回転拡散方程式9
中心分子が、周囲の 溶媒分子との熱的な衝突による微小な角度変化を通して、ランダムにその配向 を変えていくモデル
... ンダムに分布する場合10
すなわち、励起時の分子の向きの記憶は、発 光時には完全に失われるような場合

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