上で述べたように、生体膜そのものについての研究も盛んに行われているが、生 体膜は我々の現在の物理的な知識から理解するにはまだまだ複雑である。そこで、 より単純化した生体膜モデルとして、脂質二分子膜がよく用いられ、現在でもそ の構造や基礎的物性について多くの研究が行われている。図1の リン脂質を水中におくと、脂質二分子膜を形成する。飽和炭化水素(二重結合を 含まない)を足にもつ単一組成の脂質二分子膜は、温度に依存して種々の相を示 す。図3にDMPC(dimyristoyl phosphatidylcholine,図 1 のPCの足に炭素数14の直鎖炭化水素をつなげた分子)−水系 の相図を示す。高温側の 相は、二分子膜相互の配置は規則正しく並 んで結晶状態に近いが二分子膜内の炭化水素部分は液体に近い状態になっており、 液晶相と呼ぶ。低温側の 相は、炭化水素の部分も完全に 結晶状態となっておりゲル相と呼ぶ。中間温度に現れる 相は炭化水素鎖の部分は結晶状態に近いが膜は湾曲しておりリップル相と呼ぶ。 - 、 - 間の相転移はと もに吸熱型の転移で、それぞれ、前転移(pretransition)、主転移(main transition)1と呼び、示差走査熱量計 により直接的に観測することが出来る。転移エンタルピーは前転移に比べ主転移 の方がはるかに大きく、DMPCの場合、それぞれ、5.0kJ/mol、26kJ/molである。 転移温度は極性部の種類と炭化水素鎖の長さに依存して変わる。DMPCの転移温度 は、それぞれ、14℃、23℃であるが、例えば、DMPCより2本の炭化水素鎖をとも に2個だけ長くしたDPPC(diparmitoyl phosphatidylcholine)では、それぞれ、 35℃、41.5℃である。また、DMPCの極性部だけを変えたDMPS、DMPE、DMPAでは、 主転移温度は、それぞれ、36℃、49.5℃、50℃になる。これらの脂質/水系の相 転移挙動について説明できる統一的な理論はまだなく、実験・理論および計算機 実験などで現在も多くの研究が行われている。
脂質二分子膜は興味深い物理的対象であるだけでなく、先に述べたように、生 体膜のモデルとして、生体中でおこる様々な現象をモデル系で再現し、その機 構を理解するために使われている。例えば、生体から単離したり人工的に合成 した膜タンパク質を、脂質二分子膜に繰り込んでそのタンパク質の機能が発現 しているかを調べたり2、生体膜に作用する毒素や薬物の作用機構を 調べる目的で使われている。また、精子と卵の融合のような細胞融合やその後 の細胞分裂に見られるように、生体中では生体膜の融合と小胞化が頻繁に起こっ ているが、この過程は脂質二分子膜と融合誘起物質や小胞化誘起物質との系で 研究が行われている。細胞融合を誘起する物質としては、センダイウィルス、 ポリエチレングリコール(PEG)などが実用上よく用いられ、細胞内の膜融合 にはCaイオンが深く関与していると考えられている。このうち、 CaイオンやPEGは脂質二分子膜系でも融合を引き起こし、膜融合の分子 機構について研究されている。
図3の相図からわかるように、リン脂質に40%以上の水を加えて
も脂質二分子膜の相は、変化しない。水が過剰の状態で、試料を激しく撹拌する
と脂質二分子膜の小胞(ベシクル)化が起こる。この小胞を、リポソームと呼ぶ。
リポソームは、その形態から次の3種類に分類される。上記のように脂質懸濁水
溶液を主相転移温度以上の温度で激しく撹拌して得られるリポソームは、二分子
膜が層状に幾重にも重なった大きなベシクルとなり、MLV
(multi-lamellar vesicle、多重層膜リポソーム)と呼ばれる。MLVは熱力学的
に安定な形態で、化学的な分解がない限り、数カ月以上にわたってその形態を保
持する。MLVは、肉眼では白く濁って見え、静置すると白い浮遊物は沈殿する。
MLVの懸濁液を高出力の超音波で処理すると、直径数10nmの一枚膜のリポソーム
が生成する。これを、SUV(small uni-lamellar vesicle、小さな一枚
膜リポソーム)と呼ぶ。SUVは、MLVよりも熱力学的には不安定な準安定状態で
あるが、比較的容易に生成できる一枚膜リポソームで、可視光に対してほぼ透明
(粒子径が小さいため散乱がない)であるため各種分光学的測定に適しているな
どの理由でよく用いられる。径が100nm以上の一枚膜リポソームは、SUVと区別し
て、LUV (large uni-lamellar vesicle、大きな一枚膜リポソーム)
と呼ばれる。LUV は、SUVに膜融合誘起物質を添加して融合させた後に融合誘起
物質を取り除いたり、凍結-融解によって融合させたりして作製される。大きな
LUVは光学顕微鏡で観察が可能であり、また、リポソーム内液相に多量の薬物を
内包できる。LUVに薬物を内包させたリポソームは、DDS(drag delivery system)
3と
して臨床で応用されつつある。