分子は、原子核(正の電荷)と電子雲(負の電荷)から出来ています。 次のような仮想的な3原子分子を考えます。 S0 は、電子状態の基底状態、 S1 と S2 は、電子励起状態を表します。 もちろん、これは仮想的なものなので、実際にこのような分子は存在しません。
緑色が電子雲で、"-" の位置はその重心です。S0 では、正電荷の重 心と負電荷の重心は一致しており、分子全体として電荷の偏りはありません。 この場合、分子の永久双極子モーメント (正電荷の重心と負電荷の重心を結んで できるベクトル) はゼロです。それに対し、 S1 や S2 では、電子雲の重心と正電荷の重心は 一致せず、分子全体として、電荷の偏りを持っています。電子遷移とは、 ある電子雲の状態から、異なった電子雲の状態に移ることを言います。 そして、移るのに要する時間は非常に短く(〜10-15秒)、その間に、 原子核は全く動くことができません。これを、Frank-Condon の原理 と言います。 図1で、3つの原子核の相対的位置を全く同じに書いているのは、そのためです。 遷移双極子モーメントとは、ふたつの状態を遷移する時の、電荷の偏りの変化分を 表します。 図1で、その方向を赤矢印で表しています。
一般に、電子雲の拡がりは、基底状態が最も小さく、励起状態の方が拡がってい ます。図1は、その様子も表しています。
蛍光の発光スペクトルのピーク位置は、 励起スペクトルのピーク位置よりも、少し、長波長側に現れ、 これを ストークスシフト(Stokes shift) と呼びます。
ひとつの電子状態の中で、原子核は振動していて、その振動エネルギーも 飛び飛びの値を取ります(量子化されている)。通常の温度では、分子の ほとんどは振動基底状態(v=0)にあります。図1に示したように、一般に、 励起状態では、電子雲は基底状態よりも空間的に拡がっているので、原子核の 核間距離も基底状態よりは長いところが安定になります。その様子を、図2に 示します。
Frank-Condonの原理より、電子遷移の間に原子核は動けません。 このことは、図2において、電子遷移の際に、分子は垂直方向にしか遷移できな いことを表します。 S0 から S1 に遷移する場合、S0 の v=0 の 状態から遷移可能な S1 の振動状態は、必然的に、 高次の振動状態になります。 遷移が終わった後、比較的速い時間 (10-13〜10-12秒) で、S1 の振動基底状態まで緩和します。その後、蛍光寿命 (〜10-8秒) の時間スケールで、S0 に遷移しますが、その際にも、Frank-Condon の原理により、S0 の高次の振動状態に落ちます。
以上の様に、励起の遷移と発光の遷移のエネルギー差が生じ、ストークスシフト が生じるのです。
電磁気学の最初に習うように、光は、Maxwell の方程式で記述される 交流電磁波です。図3に示すように、光の進行方向に対して、 垂直な方向に電場と磁場の波を有しています。
太陽光やランプからの光は、元々、電場と磁場の方向が時間的・空間的に ランダムですが、 偏光子というものを通すと、ある方向の電場の光だけが 選択的に透過します。図3に示すような、電場の方向がある方向だけの光を、 直線偏光 (または、単に偏光した光) と呼びます。
分子の遷移双極子と、光の偏光との関係を考えます。
分子は、正電荷の原子核と負電荷の電子雲から成っている(図1)ので、 交流電磁波である光と、強く相互作用します。ところが、 原子核は重たいので、周波数の高い光(波長の短い光)には追随することが 出来ません。原子核が感じることの出来る光は、赤外光 (数千cm-1)よりも長波長の光で、可視光よりも短波長の光は、 電子雲とだけ相互作用すると考えて差し支えありません。
図1で説明したように、分子の遷移双極子とは、遷移前後での電荷の偏りの 変化分で、電子遷移の場合は、原子核は動けないので、電子雲の偏りの変化分 になります。さて、図4(a) に示したような電子遷移を起こさせるためには、 どのような偏光の光を照射すれば良いでしょうか? 電子雲は光の電場を感じて揺さぶられるので、直感的に予想できるように、 この場合には、縦偏光の光を照射すると、電子状態が遷移する可能性があります (もちろん、光のエネルギーが遷移のエネルギーと等しいことも必要です)。 横偏光の光を照射しても、(例え、その波長が遷移のエネルギーに マッチしていても)、その電場に感じて、 縦方向に電子雲が揺さぶられることは起きないので、遷移は起きません。 つまり、 遷移双極子と光の偏光方向が平行の時、遷移確率は最大に なります。
次に、ある偏光の光が試料に入射した場合、どの方向の分子が励起され易いか、 考えます (図4(b))。Z方向に進行するY方向に偏光したした光では、Y方向の 遷移双極子をもつ分子が光を吸収する可能性があり、X方向やZ方向の分子は、 遷移確率はゼロになります。
これまでは、光の吸収による偏光と遷移双極子との関係を見てきました。 次に、光の発光の遷移双極子モーメントと、発光した光の偏光との関係を 考えます(図4(c))。発光の遷移双極子モーメントがY方向であるとすると、 発光の電子遷移が起きた時、光を放出する方向はXZ面内になり、 その偏光方向は縦偏光になります。Y方向には、光自体が放出されません。
図4(b)に示したように、縦偏光(V)で励起した場合、縦方向の遷移双極子をもつ 分子のみが選択的に励起されます。その分子が発光までの間に動かなければ、 図4(c)のように、縦偏光をXZ面内に放出します。つまり、IVV だけが観測されることになります。ところが、発光するまでの間に分子が回転す ると、IVV は減って、IVH が増えることになります。 さて、IVVが減った分だけ、 IVH は増えるでしょうか? 後は、考えてみましょう。
テキストには、G因子は「分光器の偏光に対する感度補正」であり、この式で 算出される、と書いてあります。つまり、発光側に同じ強度の縦偏光(V)と 横偏光(H)が入った場合に、検出器の感度が異なるために、違う強度として 検出してしまう可能性があるので、それをG因子で補正する、 という考え方です。この考え方の元になっているのは、蛍光発光では、 IHV と IHH は同じ強度になるはず、ということです。 ここでも、答は書きませんが、図4に基づいて、横偏光で励起されるのは、 どの方向の分子か、それを観測する方向から見るとどう見えるか、を考えれば、 理解できると思います。
通常、蛍光分光は、非常に希薄な溶液で行います。溶液が希薄な場合には、 蛍光強度は、蛍光色素の濃度に比例します。ところが、色素の濃度が 濃くなって来ると、蛍光強度は濃度に比例しなくなります。これには、 次のふたつの事柄が関係します。
まず、溶液全体の色素濃度が濃くなって来ると、励起光が試料セルの表面で 吸収され、試料セルの中心に到達するまでに、励起光が減衰してしまう、 ということが起こります。これは、実験室にある参考書(「蛍光測定」の p.59 〜 61) で詳しく論じられています。しかし、現在行っている生物物理実験では、 色素の濃度は、高々数μM程度で、このように薄い濃度では、吸収による 励起光の減衰は無視できます。
濃度が濃くなって来ると起こるもうひとつの効果は、色素同士の相互作用 です。希薄な溶液では、色素同士は十分に離れているので、色素同士が相互作用 することはありませんが、濃くなって来ると、ひとつの色素の近傍にもうひとつ の色素が存在する確率が無視できなくなって来ます。このような場合、 励起された蛍光分子のすぐ近傍に基底状態の同種分子があれば、条件によっては、 ふたつの分子の電子状態が非局在化して、ふたつでひとつの分子のように振る舞 うこと(そういう会合体をExcimerと呼ぶ)があります。こういう会合体は、もはや、 1分子の蛍光発光とは異なって、全く発光しなくなったりします。このように、 濃度が濃くなって、色素同士の相互作用によって、蛍光強度が 逆に弱くなる現象を、 自己消光(self quenching) と呼びます。実験 5 や実験 6 で、ローダミンラベルした脂質の濃度を 変えたりして、実験します。 この場合、溶液全体での色素の濃度は十分に希薄なのですが、 脂質膜の中の微視的な色素濃度は、非常に濃くなります。 ローダミンラベル色素を脂質に対し、2%入れた場合には、脂質全体の 1/50 がローダミンになり、このような条件では自己消光が確実に起こっていると 考えることができます。また、色素の種類によっても、自己消光を起こし易い 色素と起こし難い色素があり、ローダミンは、特に、自己消光を起こし易い 色素として知られています。