蛍光分光をより理解するために

初版作成: 2006/05/25
最終更新: 2006/05/29
蛍光スペクトルは、分子の電子状態の遷移を観測しているので、 厳密に理解するためには、量子力学の知識が必要になります。 講義の進展具合によって、量子力学を勉強する前に、この実験を 受けないといけない場合もありますので、ここでは、量子力学の 知識なしに、直感的に理解できるような形での説明を試みます。 そのため、多少、厳密さは欠いていることを、ご承知下さい。
  1. 遷移双極子モーメントとは何か

    分子は、原子核(正の電荷)と電子雲(負の電荷)から出来ています。 次のような仮想的な3原子分子を考えます。 S0 は、電子状態の基底状態、 S1 と S2 は、電子励起状態を表します。 もちろん、これは仮想的なものなので、実際にこのような分子は存在しません。

    遷移双極子モーメントの説明図

    緑色が電子雲で、"-" の位置はその重心です。S0 では、正電荷の重 心と負電荷の重心は一致しており、分子全体として電荷の偏りはありません。 この場合、分子の永久双極子モーメント (正電荷の重心と負電荷の重心を結んで できるベクトル) はゼロです。それに対し、 S1 や S2 では、電子雲の重心と正電荷の重心は 一致せず、分子全体として、電荷の偏りを持っています。電子遷移とは、 ある電子雲の状態から、異なった電子雲の状態に移ることを言います。 そして、移るのに要する時間は非常に短く(〜10-15秒)、その間に、 原子核は全く動くことができません。これを、Frank-Condon の原理 と言います。 図1で、3つの原子核の相対的位置を全く同じに書いているのは、そのためです。 遷移双極子モーメントとは、ふたつの状態を遷移する時の、電荷の偏りの変化分を 表します。 図1で、その方向を赤矢印で表しています。

    一般に、電子雲の拡がりは、基底状態が最も小さく、励起状態の方が拡がってい ます。図1は、その様子も表しています。

  2. ストークスシフトは何故起きるか

    蛍光の発光スペクトルのピーク位置は、 励起スペクトルのピーク位置よりも、少し、長波長側に現れ、 これを ストークスシフト(Stokes shift) と呼びます。

    ひとつの電子状態の中で、原子核は振動していて、その振動エネルギーも 飛び飛びの値を取ります(量子化されている)。通常の温度では、分子の ほとんどは振動基底状態(v=0)にあります。図1に示したように、一般に、 励起状態では、電子雲は基底状態よりも空間的に拡がっているので、原子核の 核間距離も基底状態よりは長いところが安定になります。その様子を、図2に 示します。

    図2:Frank-Condon の原理

    Frank-Condonの原理より、電子遷移の間に原子核は動けません。 このことは、図2において、電子遷移の際に、分子は垂直方向にしか遷移できな いことを表します。 S0 から S1 に遷移する場合、S0 の v=0 の 状態から遷移可能な S1 の振動状態は、必然的に、 高次の振動状態になります。 遷移が終わった後、比較的速い時間 (10-13〜10-12秒) で、S1 の振動基底状態まで緩和します。その後、蛍光寿命 (〜10-8秒) の時間スケールで、S0 に遷移しますが、その際にも、Frank-Condon の原理により、S0 の高次の振動状態に落ちます。

    以上の様に、励起の遷移と発光の遷移のエネルギー差が生じ、ストークスシフト が生じるのです。

  3. 偏光とは何か

    電磁気学の最初に習うように、光は、Maxwell の方程式で記述される 交流電磁波です。図3に示すように、光の進行方向に対して、 垂直な方向に電場と磁場の波を有しています。

    図3:電磁波

    太陽光やランプからの光は、元々、電場と磁場の方向が時間的・空間的に ランダムですが、 偏光子というものを通すと、ある方向の電場の光だけが 選択的に透過します。図3に示すような、電場の方向がある方向だけの光を、 直線偏光 (または、単に偏光した光) と呼びます。

  4. 偏光と遷移双極子との相互作用

    分子の遷移双極子と、光の偏光との関係を考えます。

    分子は、正電荷の原子核と負電荷の電子雲から成っている(図1)ので、 交流電磁波である光と、強く相互作用します。ところが、 原子核は重たいので、周波数の高い光(波長の短い光)には追随することが 出来ません。原子核が感じることの出来る光は、赤外光 (数千cm-1)よりも長波長の光で、可視光よりも短波長の光は、 電子雲とだけ相互作用すると考えて差し支えありません。

    図1で説明したように、分子の遷移双極子とは、遷移前後での電荷の偏りの 変化分で、電子遷移の場合は、原子核は動けないので、電子雲の偏りの変化分 になります。さて、図4(a) に示したような電子遷移を起こさせるためには、 どのような偏光の光を照射すれば良いでしょうか? 電子雲は光の電場を感じて揺さぶられるので、直感的に予想できるように、 この場合には、縦偏光の光を照射すると、電子状態が遷移する可能性があります (もちろん、光のエネルギーが遷移のエネルギーと等しいことも必要です)。 横偏光の光を照射しても、(例え、その波長が遷移のエネルギーに マッチしていても)、その電場に感じて、 縦方向に電子雲が揺さぶられることは起きないので、遷移は起きません。 つまり、 遷移双極子と光の偏光方向が平行の時、遷移確率は最大に なります。

    図4:相互作用

    次に、ある偏光の光が試料に入射した場合、どの方向の分子が励起され易いか、 考えます (図4(b))。Z方向に進行するY方向に偏光したした光では、Y方向の 遷移双極子をもつ分子が光を吸収する可能性があり、X方向やZ方向の分子は、 遷移確率はゼロになります。

    これまでは、光の吸収による偏光と遷移双極子との関係を見てきました。 次に、光の発光の遷移双極子モーメントと、発光した光の偏光との関係を 考えます(図4(c))。発光の遷移双極子モーメントがY方向であるとすると、 発光の電子遷移が起きた時、光を放出する方向はXZ面内になり、 その偏光方向は縦偏光になります。Y方向には、光自体が放出されません。

  5. 全蛍光強度は、何故、IVV + 2 IVH になるのか (IVH だけ2倍する必要があるのか)?

    図4(b)に示したように、縦偏光(V)で励起した場合、縦方向の遷移双極子をもつ 分子のみが選択的に励起されます。その分子が発光までの間に動かなければ、 図4(c)のように、縦偏光をXZ面内に放出します。つまり、IVV だけが観測されることになります。ところが、発光するまでの間に分子が回転す ると、IVV は減って、IVH が増えることになります。 さて、IVVが減った分だけ、 IVH は増えるでしょうか? 後は、考えてみましょう。

  6. 何故、G因子は IHV / IHHなのか?

    テキストには、G因子は「分光器の偏光に対する感度補正」であり、この式で 算出される、と書いてあります。つまり、発光側に同じ強度の縦偏光(V)と 横偏光(H)が入った場合に、検出器の感度が異なるために、違う強度として 検出してしまう可能性があるので、それをG因子で補正する、 という考え方です。この考え方の元になっているのは、蛍光発光では、 IHV と IHH は同じ強度になるはず、ということです。 ここでも、答は書きませんが、図4に基づいて、横偏光で励起されるのは、 どの方向の分子か、それを観測する方向から見るとどう見えるか、を考えれば、 理解できると思います。

  7. 蛍光色素の濃度と蛍光強度は比例するか?

    通常、蛍光分光は、非常に希薄な溶液で行います。溶液が希薄な場合には、 蛍光強度は、蛍光色素の濃度に比例します。ところが、色素の濃度が 濃くなって来ると、蛍光強度は濃度に比例しなくなります。これには、 次のふたつの事柄が関係します。

    まず、溶液全体の色素濃度が濃くなって来ると、励起光が試料セルの表面で 吸収され、試料セルの中心に到達するまでに、励起光が減衰してしまう、 ということが起こります。これは、実験室にある参考書(「蛍光測定」の p.59 〜 61) で詳しく論じられています。しかし、現在行っている生物物理実験では、 色素の濃度は、高々数μM程度で、このように薄い濃度では、吸収による 励起光の減衰は無視できます。

    濃度が濃くなって来ると起こるもうひとつの効果は、色素同士の相互作用 です。希薄な溶液では、色素同士は十分に離れているので、色素同士が相互作用 することはありませんが、濃くなって来ると、ひとつの色素の近傍にもうひとつ の色素が存在する確率が無視できなくなって来ます。このような場合、 励起された蛍光分子のすぐ近傍に基底状態の同種分子があれば、条件によっては、 ふたつの分子の電子状態が非局在化して、ふたつでひとつの分子のように振る舞 うこと(そういう会合体をExcimerと呼ぶ)があります。こういう会合体は、もはや、 1分子の蛍光発光とは異なって、全く発光しなくなったりします。このように、 濃度が濃くなって、色素同士の相互作用によって、蛍光強度が 逆に弱くなる現象を、 自己消光(self quenching) と呼びます。実験 5 や実験 6 で、ローダミンラベルした脂質の濃度を 変えたりして、実験します。 この場合、溶液全体での色素の濃度は十分に希薄なのですが、 脂質膜の中の微視的な色素濃度は、非常に濃くなります。 ローダミンラベル色素を脂質に対し、2%入れた場合には、脂質全体の 1/50 がローダミンになり、このような条件では自己消光が確実に起こっていると 考えることができます。また、色素の種類によっても、自己消光を起こし易い 色素と起こし難い色素があり、ローダミンは、特に、自己消光を起こし易い 色素として知られています。


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